お姿
新聞の書評欄を開いたとき、ある作家の住まいと全身写真が載っているのが目に入った。
暗い、不気味。
でも、この写真は好きだ。
切り抜いて大事にしよう。
もしかしたら、私の憧れの、お姿かも?
もともと、電話をとるのもおっくうで、誰かと交渉するなどという高度の技術は、私の辞書にはない。
それでも、高齢の夫が医療や介護のお世話になるようになってからは、人様と話し合いをしなければやって行けなくなった。
夫が視力や聴力が激減し、事務的なことができなくなってからは、唯一の同居人である私がこなすしかなくなった。
相手は善意である。良かれと思って、あれこれ指示をしてくださる。こちらも誠実に対応しなければ、夫の晩年の生活は成り立たない。
頭では理解しているし、80歳にもなれば、それなりの対応はできる。
それでも、わたし自身のことでもないのに、低姿勢で応対していると、イライラが溜まっていく。
先が長いのだから、気晴らしをしながら暮らしていくのがコツなのだろう。コロナも終わりに近づいたようなので、身体を動かすワークショップなどに参加してみようか?
しかし、夫の透析や検査のための通院の予定が煩雑で、まとまった時間がとりにくく、自分の体力もガタ落ちだ。
手軽な遊びを見つけなくちゃと、気晴らしの方法ばかり考えていたが、暗くて不気味な写真の著者のお姿を見た瞬間、自分の中に、ふてぶてしいというような、妙なものが乗り移り、居着いた。
ノンシャラン、という言葉がうかんだ。