気が変わる
朝7時。布団の中。
夫が透析を受けに行く日なので、起きなければと思う。
お腹が張っていて気分が悪い。我慢して起き上がると、鼻づまりで息苦しく頭が重い。便秘で、花粉症まで重なっている。
最悪。
この状態で、あと一つイラつく出来事が起きたらキレるなという予感。
とりあえず、心の中で、いつものように、ブレーキをかける。
高齢で、心臓、腎臓が悪く、弱っている夫に当たってはいけない。
体調が悪く不快だというのは私の問題である。
台所のガスストーブをつけ、着替え、洗面、コーヒーを一口飲む。
あーダメだ。頭が重い。
とりあえず自室に戻り、机の前に座る。ここが一番落ち着ける場所だから。
夫の寝室から、介護用ベッドのリモコンを操作する音がする。起き上がっているのだろう。
その時、居間で固定電話が鳴った。
朝の7時半である。
姉に異変が?
91歳で独居の長姉になにかあったのか?
電話に出る。
こちらが名乗っても相手は無言である。
相手は慌てていて言葉が出ないのか?
もう一度、名乗るが、やはり相手は沈黙。
背後で、シャックン、シャックンと、単調にくりかえす機械音がする。
工場の中?
機械音のさらに向こうで、「おはようございます」という遠い声が聞こえる。
工場に誰かがやってきた?
シャックン、シャックン、と機械音。
もう一度、「おはようございます」という遠い声。
シャックン、シャックン、機械音だけは確実に聞こえる。
そっと、受話器を置く。
立ち上がり、台所へ移動したとき、あれっ?
鼻づまりも頭が重いのも消えていた。
どこのどなたか存じませんが、モーニングコール、ありがとうございました。
ベーコンエッグを作りながら、二人の姉が話してくれたことを思い出した。
姉たちが小学生の頃、母は赤ん坊だった私を背負い、二人の姉を左右の手でしっかりつかんで、踏切の前に立っていた。姉たちは、自分たちはみんなで死ぬのだとわかっていたという。
その時、母の背中で私が泣き出した。
我に返った母は、急いで、姉たちと手をつないで家に帰った。
後に、姉たちが、あの瞬間、母はどうして気が変わったのかと尋ねると、母は、「お腹が空いたまま遠くに連れて行くのはかわいそう。お乳を腹いっぱい飲ませてからにしようと思い返した」と苦笑したという。