変化は起きている
炎天下で土を耕すという過酷な農作業ではなく、野菜や花などはハウス内の棚の上で水耕栽培という農法へと変化してきた。
環境整備と管理のための電力が現地の自家発電でまかなえれば、経営してゆける。
近場でも、障碍者や高齢者が働ける工場方式の農園が次々と開かれている。
露地栽培の作物が優れていることはわかっているが、身体が不自由な人でも植物が育てられるという別の価値観も生まれてきた。
自分が80歳になったこともあり、高齢者が施設に閉じ込められるのではなく、少しでも外に出られるような仕組みにしたいと思っている。
受け身で介護されるのではなく、工夫して暮らすことを考えていきたい。
夢見る婆さんの絵に描いた餅ではなく、ビジネスとして実現しつつある。
高齢になっても働けということではなく、「ささやかでも、何かすることがある」のは楽しみだと思う。
よけいなこと、人それぞれ
水のような在り方を説く有名な思想がある。
よけいなことをしないほうがいいというのは確かにその通りだとおもう。
もやもやしているとき、自分が余計なことをしていないか見直すと、苦笑して脱力できることもある。
でも、余計なことは、人それぞれだし、自分だって時と場合による。
ひとのOOを笑うな、とは名言だと思う。
自分もそうだけれど、誰でも、奇妙なことにハマることはあるような気がする。
目が覚めると、苦笑いするしかない。
ソフトタッチ
小声でささやくように話をする孫娘が来た。
連休に四国をまわった話をぽつぽつとしてくれる。
あー、小さい声って小雨のようにしっとりと肌からしみてくる。
難聴の夫と大声で話をしなければならない日々のイライラが消えていく。
3月で五年間勤めた特養を辞めた孫娘は、キックボクシングを習い始めたという。
「なんでまた?」
「仕事しなくなると太りそうだから」
「それにしても」
「パパが格闘技が好きだからテレビ中継をよく観てたし、本物の試合も見に行ったことがあるんだよ」
女性二人で組んで防具をつけ、「どーんと蹴りが入るのを受ける」
この子は、受けるのがうまいのかもしれない。
ジムはいつでも開いていて、自主練もできるという。
いつでも開いている場所はいいねと頷きあった。
あなたの娘です
亡き父は癇癪もちで怒鳴る人だった。
母は物静かな人で、父の怒りに反発しなかった。
父が子どものように駄々をこねているとき、母の顔をうかがうと、かすかな薄笑いが浮かんでいることがあり、これも怖かった。
それでも、私は静かな母のほうが好きで、怒るときの父を嫌だとおもい、クールになるように努力してきた。
夫は出会った時から紳士的で、85歳の今でも変わらない。
超がつく難聴で、かすかに見える程度の視力、外に出る時は車椅子という状態だけれど、呑気で明るい。
楽しみは飲食だけで充分だと言いきっている。
出来過ぎた人のそばにいると、イラつく自分が嫌になる。
夫は補聴器も役に立たないので、私は彼の耳元で大声で話をする。
上手く伝わらないから、だんだん怒りがわいてくる。
怖かったし子供心にも軽蔑していた父のことを思い出す。
「お父さん、私、あなたの娘だったんですね」
八つ当たり
腹が立っているときに、メールが来た。
相手は、若くして特養に入っている気の毒な人。
いい顔をすると、食品や折り紙などを送ってくれと頼まれる。
夫の病気について、いかがですかと訊いてくる。
悪いに決まってる、訊いてどうするの?
夫の手術予定が決まらない。
団地の室内工事に備えて移転用に用意した部屋に移る時期が延び続ける。
無駄な家賃がかさんでいく。
イライラしないために、ドラマを観ながら菓子をつまむので太るばかりである。
くそーっ!
と、自分に腹を立てているときに、運悪くメールが来た。
手術日が決まらない、夫の気持ちがコロコロ変わる、主治医との関係も良くない、
てんやわんやであると、返信した。
完全に八つ当たりである。
優しくなれない。
紺色のクマ
ベランダから見える一面の氷の世界。
いなくなったクマの安否を気にしている。
凍死してしまったのか?
諦めかけた頃、ベランダのすぐそばの氷の中で動いている紺色のクマ。
首には四角いバッグをひっかけている。
良かった!
安堵したところで目が覚めた。
夫は、透析に行くとき、バッグを首にかけていく。
タオルや止血帯、診察券、保険証、透析情報が入ったカード、ペースメーカー使用者のカード、家のカギ、小銭などが入っている。
馴染むと息苦しくなる
個人商店に通うようになり、「これ、サービス!」とか、「おまけしときますね」とか言われると、その店に行きにくくなる。
そんな自分を嫌な奴だとひけめに感じていたが、今は普通の人?
対面販売を嫌っても、変な人だとは思われなくなった。
親しくなると居ずらくなる若い女性を描いたドラマを観た。
流れ者の映画は昔からあった。
定住や安定が苦手な人はいる。
大人は他者との距離の取り方を工夫できるが、家風や校風、グループ行動になじめない子どもは居場所がない。
親からの明らかな虐待ではなく、親きょうだいと「合わない」子どもはいる。
運良く家族以外の「合う」人や物事、居場所に出会えればいいが、悪意がある人に利用されることもある。
障害があったり認知症になったりした人が家族の負担になった時、施設に閉じ込めるのではなく、もう少し緩やかな居場所がないものかといつも思う。
ネットで探すと情報はあるが、そういう場所にもなじめるかどうかはわからない。
武道では、「居着くな」というが、生活者としてははぐれものである。